法事③ 生まれるいのち


「上」で起こっている事がある。



私たちの地上で3回忌、50回忌、総勢5名のご先祖様の法要を執り行った後、

母と私は京都の宿に移動した。部屋で法事で持ち帰ったお弁当を開けて遅い食事をし、体を横たえて休みについた数時間後。深夜3時半、母の携帯に義兄から電話が入る。


そんな深夜の電話に、母も私も目が覚めて緊張が走る。東京にいる私の一番上の姉、陣痛が始まった、と。


姉の予定日は2週間以上も先だった。予想だにしなかった。

母と二人興奮してとても眠る状況ではなくなり、まさかまさかとやかましくいろんな話を繰り広げ、結局朝方まで話をする。



翌朝、早朝に宿を出て、この関西の法事の旅の最後の目的地、京都の東本願寺、大谷祖廟へ向かう。

ここに、母の両親の遺骨が分骨されている。

母にとっては、数十年前にここを訪れて以来、もう二度と来ることはないと思っていた場所だった。


タクシーで入り口まで着いたは良いものの、中は小高い山のようになっており、分骨された場所までまだかなり登って歩いていかなければならない。私の体は消耗しきって動かず、参拝場所まで登る気力がくじける。

もう東京からはるばるここまで来たのだ、それだけで良しとし、入口から山を見上げるだけでいいんじゃないか…と母と話し合う。その時ふと、母が左手前方に、車いす用のエレベーターを発見する。それならば一瞬で参拝場所まで登れる。

時刻は8時27分、エレベーターの始動時刻は8時30分。

気づかせてもらう。「こちらだよ」、と。見えない手に。



三日間の最後の参拝、祖廟の前で手を合わせる。

数十年後、訪れることがあるだろうか?

母が、骨を砕いたそのあとに。

静かで安らかな場所だった。昨年の台風の影響で木々が倒されていた。



祖廟入口に到着したのが朝の8時過ぎ。後から聞いたが、8時16分に、姉の赤ちゃんは生まれた。

残された人々がこころを整理し、嘆きを癒していった、3回忌、50回忌の儀式。

逝くいのち、ひとつの大きな終結とほぼ時を同じくして、新しいいのちが送り出される。


ただただ「上」で行われている活発なエネルギーの活動を感じ入る。

見えざる手の介在を、天の美しい采配を思う。

日時は2月26日・・・

それは、2年前、父方の祖母が亡くなった日の翌日、祖母の葬儀を行った日付と全く同じだった。

寸分狂いなく、送り出された。





あなたはおばあちゃんの生まれ変わり?

赤ちゃんは、「幸愛(ゆきあ)」ちゃんと名づけられた。

母にとっては、実に、6人目の孫。


両親を早くに亡くしたが、子孫には恵まれたねと、笑い合う。



母と私は京都の大谷祖廟を出て、昼過ぎに新幹線に乗り、急いで東京へ戻る。

東京の自宅へ戻り荷物を置いて早々、今度はバスで姉が出産した病院へと走る。スピード安産であっという間の出産、赤ちゃんも健やかで、産後すぐの姉も穏やかな表情。喜び合って笑い合って、一時間ほどの幸せな面会をし、ようやく全てが終了し、母とバスで最寄り駅まで帰ってくる。落ち着いて、母と二人、駅の近くの定食屋で夕食をとる。



不思議な心持ちだった。こんな幸福な気持ちで、母と二人、夕食をとることになるとは。ちょうど二年前の同じ日付、2月26日に、やはり母と私は急遽東京から関西へ戻り、父方の祖母の葬儀に出て、一泊二日のとんぼ帰りでまた東京に戻ってきたのだった。喪服に身を包んだまま、東京駅から自宅近くの駅まで辿り着いた時に、母と二人疲労困憊も甚だしく、入った蕎麦屋で頼んだ蕎麦も途中で胃痛がして満足に食べられなかった。食べ始めた瞬間から、それまで張りつめていた糸がぷつんと切れ、母も私も素の自分に戻ったか、涙と嗚咽したのを覚えている。自分の引っ越しと祖母の葬儀が重なり、さらに自分の知人のお母様までが同じ日に亡くなったと聞き、短期間で自分の心身を凌駕する事象が連続して起こり、私は疲弊しきっていた。母は足が痛くもう一歩も前へ踏み出すことも難しい状態だった。駅からタクシーで家まで帰ろうとしたが、私は精神的に極限状態にあって、タクシーの運転手さんと些細なことで口論し、イライラして運転手さんを罵倒するまでに至った。その悲惨な日が二年前のその日だった。


今、この日、やはり同じ状況で母と二人、関西を往復して帰路に着き、家の近くで和食をとっている。二泊三日の法事の間起こった出来事、出逢った人々との時間は夢のように満たされており、感謝と感動でたくさんの涙を流し、極めつけは、最後に身内に赤ちゃんが生まれるというサプライズまで起こった。こんなに穏やかで満たされた気持ちで、母と食事をとれるとは思ってもいなかった。二年前、この二年後を想像していなかった。


不思議な符号の一致だ。偶然だと言ってしまえばそれまでかもしれない。そう思う人もいるだろう。時に人間の知恵では理解し得ないことが起こるものだと思う。2月26日、祖母の葬儀が行われた日付、その祖母を含めた5人のご先祖様の法事を終えたとほぼ同じ時刻に、祖母が一番かわいがったであろう、祖母の初孫であった私の姉から、新しい命が生まれる。


私たちに理解できるのはその事実があったということだけ。その事象があったということだけ。透視能力のない私には、死者の姿は見えない。死者の声は聞こえない。


けれどそこに、何らかの目に見えない大きな力が介在していることが感じられる。そう感じざるを得ない事象が起こる。

大きな流れの中にいる、自分たち。たまたまそこにいる、自分たち。自分たちが、大河の一滴であると思わされる事象。

何か大きなハンモックの中で、安全にゆらり揺られている私たち。昆虫に見えるのは、自分の足元にある緑の一枚の葉っぱのみ。けれどその葉っぱは、大きな大きな木の、全体の中の一部。


法事。

1世紀以上を跨ぐ時間が同居する空間、此岸と彼岸がつながり、生と死の空間へと大きなうねりがうまれる時空間。

家族という密な熱と圧がかかる場所。ここでしかなされない、気や言葉の交流が、ほどかれる記憶が、各々立体感をもって、立ち現れる。あたかも、世代を超えて、一族がダイナミックに一つの造形を創り出すよう。

全てあつらえたように、綺麗に綺麗に整えられたような舞台だった。


事象は事象としてあり、そこに物語を見出すのは、個人の自由だろう。そして、その物語が、その人をより深く、生きることを可能にしてくれる。生きることを、強く、太く、支えてくれる。


物語…今回、死者たちが私たちに伝えたかったことがあるとしたら、こんな歌だろうか。


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…来てくれて、ありがとう

亡くなった私たちを、思い出してくれて、ありがとう

心を寄せてくれて、ありがとう

会えて、嬉しい


私たちの見た景色に、ともに思いを馳せてくれて、ありがとう

そう、これが、私たちの生きた時代、私たちの生きた景色、

あなたたちが辿ってくれて、私たちのいのちが、甦る


亡くなった私たちが、あなたたちへ託したのが、いのち、そのもの

ゆずり葉のように、わたしたちが亡くなることで、次のあなたたちに、いのちがつながった


ありがとう


いのちは、つながれてゆくからね


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わたしたちは、死と生の円環の中にある。







その日の早朝、陣痛が始まったと聞いて、興奮も絶頂にあり眠れなくなった母の昔話は、

私が毎日共に住んでさえいても今まで出てこなかった話だった。

その場、その空間でなければ出てこなかった話…それは、長年親類の「Mおばさん」に苦しめられた話だった。

恐らくこの日、この時でなければ母はほとんど誰にも話すことなく墓場に持って行っていたかもしれない。非日常の興奮の最中、最初は嬉しさと驚きという形で現れた母の中の「なにか」は、広がっていくにつれ、こころの他の部分をも刺激し、その話の粒が出てくることを可能にした。母の脳の中の記憶の粒子が突如として沸き立った。

「おばさんやおばあちゃんのように、痴呆になるのは怖い。意識のコントロールが効かなくなって、恐ろしい言葉を人に投げつけるようになったら…」

そんな言葉がでてきた。母の言の葉を聞き入りながら

生きている間に、自分のこころを傷つけないことが、翻って人をも傷つけないのではと、伝える。

自分を苦しめる人々や環境の中で我慢や苦しい思いをすることなく、穏やかで幸せな心持ちでいれる人々の間で、幸せなこころでいることが、結果的に穏やかな死を迎え、そのエネルギーが周りへも伝播する。

だから、母は、もう、しあわせな心でいれる人たちの間で生きればいいんじゃない、と告げる。もう、十分大変な思いをしてきたのだから。


それはタイ仏教から学んだ在り方。

まずは、自分が楽でいること。(サバイサバイでいること) 自然でいること。不安がないこと。

「幸せ」を求めるのではなく、「傷つけない」こと。自らを。

人生の変遷、苦しむ過程でしか学び得ないことも多いが、

ただでさえ道は苦に富む道、

気楽に、自然に、あってもいいのではないかと、思う。

恐怖がある状態では、まずはもうこれ以上神経レベルでの不安がない、安心な状態へと自分を導いてあげるのが、きっといい。

悪しき縁を避け、よき縁に触れる…と、ある僧侶の方が言っていた。


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