父と、『父なるもの』

それは、一年前、母の一回目の股関節手術が終わった頃だった。

痛みの酷かった右足には人工股関節が入り、車いすは必要なくなり、自力で少しずつ歩けるようになっていった。


リハビリ入院を終えて自宅に戻ってからの母は、日常生活の所作の一つひとつの全てに感動していた。

部屋からトイレまで痛みがなく歩けること。

一人で、自宅から杖をつきながら500m先のスーパーまで歩いて帰ってこれること。

さらにバスに乗り、孫たちのひな祭り会へも行けるようになったこと。


茫漠と虚空を見つめていた灰色だった母の目には、日毎に、明るい光が宿っていった。

母は前を向き、一つひとつできなかったことができるようになり、喜びと自信と共に自分を取り戻していった。


その後、一か月後には2回目の左足の股関節手術は残っていたとはいえ、確実に母の心身の状態は改善していった。

母は生きることの歓びを謳歌する時季へ戻りつつあった。




2月、鮮やかな黄色い蝋梅や紅白の梅、小さな青いオオイヌノフグリが咲く季節、

早春の兆しを外界に眺めながら、母のこころの内側もその景色に同期し、

身体の内にも花が咲きほころんでいくような母を眺めながら、

娘の私の心身も軽やかで美しい春で満たされ始めていた。

そのことに日々驚きを感じていた。

母は痛みなく歩けることが「夢みたい」と言って目をきらきらさせ、少女のように笑った。

本当に夢のようだった。



そんな母を横で見つめていたある日、亡くなった父の夢を見た。



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夢の中で、父と私は、私が子どもの頃住んでいた兵庫県の小さな街の道路を車で走っている。

自宅へ帰ろうとしているのだ。私は助手席に座っていた。


父は運転が得意で大好きだった。

が、この時の父だけは、危険極まりない運転をしていた。


「右のお尻を失って」重心のバランスがとれないから、

ハンドルを握っていても真っすぐ走れない。


すぐに車はふらふらと右斜め前の対向車線へ突入し、前から来た車や曲がってきた車とぶつかりそうになる。


私は横から、必死で「危ない危ない!戻して!」とハンドルを戻そうとする。

父も私も、一瞬たりとも気が抜けない生きた心地のしない運転だった。


窓からは、小学校の頃に毎日眺めた懐かしい景色が過ぎてゆく。

家族で行った父の好きだったお好み焼き屋さんが。本屋さんが。


やっと、通っていた小学校のある交差点まで来た。

信号待ちで止まり、後はこの角を曲がれば家へ帰れる。

そこからはもう車の通りもさほどないから、なんとか事故も起こさず、無事に母のいる自宅に戻れるだろう…


ほっと気持ちが緩んだ瞬間に、はっとした。


「お父さん、お母さんのとこ帰ったら、消えてしまうんやろ…?」


父は、何も言わずに前を見つめたままだった。何とも言えないこの上なく優しい微笑をたたえたまま、

何も答えなかった。


あぁ、そうなのだ。それが、答なのだ。


あまりに切なくて、涙がこみ上げ、思わず手を伸ばし、横に座っている父の左腕を私は掴む。


父が着ていたナイロン製のジャンパーの「くしゃっ」という感触を手の中でまざまざと感じた。


肉は掴まなかった。おそらく直観で知っていた。そこに「肉」はないことを。


お父さん、


口には出さずに心で呼んだ。


瞬間、目が覚めた。


父は、消え、私は、母の住むこの世界に戻ってきた。


天井を見つめたまま涙が溢れた。


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夢の中で父が「右のお尻を失って」いたのは、それを母にあげたからだ… 右足の股関節。


父の生前、もう10年近く前から、母は徐々に足を悪くしていた。

色んな病院に行ったが原因がわからず、痛みを我慢しながら平日は仕事へ通い、

帰宅後や週末は、「足が痛い」と言って父に愚痴を言い続けていた。

父は歩きづらい母のために車をよく運転し、母が行きたい場所へ連れて行ってやった。

人前で我慢強く決して弱音を吐かなかった母は、父の前でだけはわがままだった。

仕事をしていなかった父は、毎日仕事から帰ってくる母のために、

不器用だが男らしい、焼きそばやうどんなどの簡単な手料理を作ってやっていた。


父が亡くなってから、母は口を閉ざし、足の状態は坂道を転がり落ちるように悪化した。


歩きたくなかったのだ。

父のいない人生、もう、歩きたくなかったのだ。

歩みを止めてしまいたかったのだ。


急速に痛みが悪化し、みるみる歩けなくなってしまったので、

結果、それまで通っていた病院から他の都立総合病院へと病院を変え、長年の痛みの原因が股関節から来ていたということが判明した。

そして、手術に至るまでは時間がかかったが、偶然にも新しい病院の母の主治医の先生は名医だったことが後から分かった。

入院中に看護師さんからの話で知ったが、その主治医の先生と助手の先生は

その都立総合病院の中でも外科手術でNo.1、No.2 と呼ばれる名医のタッグだった。

そんなこともつゆ知らず、母の足が悪化し始めた当初、母を新しい病院へ連れて行った頃の私は、先の不安を抱えながら母と待合椅子に座り、診察の長い順番を待っていた。


母の手術を取り巻く一連の出来事と環境は、これ以上にないくらい完璧で恵まれていた。

母の手術は2回目も無事に終わり、左足にも新しい人口股関節が入った。

手術後、さらに母はみるみる元気になった。

ここまで綺麗に回復し痛みも後遺症も残らないのは珍しい、と母のケアマネージャーさんやリハビリの理学療法士の先生たちに驚かれた。

母の身体は、手術によって痛みのなかった20年前に遡り、回復したかのようだった。

内臓疾患は何もなく胃腸も健康そのものなので、恐らくこれから寿命を全うできれば後20年は生きる。


父が亡くならなければ、足の痛みの原因もわからず手術も受けないまま、ずっと痛みを持ち続けたままだったかもしれない。


父の死後1年、2回の手術後、母の人生は激変した。

コーラスへ通い始めた。シルバー人材センターに登録して仕事を探し始めた。

小旅行をするようになった。

この数年食事にはあまり頓着していなかったが、私と一緒に家でぬか漬けや発酵食品を作り始めた。

今まで出逢わなかった新しい友人たちに出逢い始め、他者からサポートを得ることを知り始めた。

身内以外に頼ることを知らなかった母は、私の友人初め他者から親切を受け取ることを、

最初は遠慮がちだったが、徐々に喜んで受け入れ始めるようになった。

孫が新たに生まれ、孫の世話で忙しくなった。

リュックサックに食材を詰め込んで私の姉夫婦の家へ訪れ、孫たちに夕飯の支度をするようになった。

私の友人知人と、家で食事をすることを楽しむようになった。

「家族」が広がった。


身体の中に「骨」として組み込まれた父とともに、別の人生を歩み始めた。


父は、母の中で、生きたかった

父は、母の中で、生を共に謳歌したかった


父の願いだった、とは言えないだろうか。


父が亡くなったおかげで、母はとてつもない苦しみを味わい、

圧が高まりある臨界点を突破したところで、人生は父の生前とはある種の別の意味で、豊かになった。

娘の私も母に押し迫って共に地獄を巡り、そのおかげで術後の母に気功の手当てを始めることを知り、それが後々の未来、私の仕事につながることになった。


なんという父のギフトだったか。

なんという父の愛だったか。


そして、それは、苦しい試練を乗り越えることでしか得られないものがあることを、

厳しくも教えてくれる普遍的な「父なるもの」の愛でもあったのかもしれない。


「父なるもの」は妥協しなかった。


人生で誰もが通過する生老病死、愛別離苦、そのある一つの経験を、

私たち母娘がくぐり抜けることでしか知りえなかった愛を、

豊かさを、恵みを、諸相を重層的に観る智慧の一つを、教えてくれた。


母娘がふたりで、ぎりぎり抱えうる限りの不安と恐れを増大させてくれ、

その深みへ潜り、海底に沈む宝物を見つけ水面に戻ってくるまで、見守っていてくれた。


「父なるもの」は最後には私たちがそれを見つけ、生きて戻ってくることを知っていた。

これらのシナリオ全て、父の願い、そして、「父なるもの」の願いと意図だったとは

言えないだろうか。


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周造は惚れだ男だった。惚れぬいだ男だった。それでも周造の死に一点の喜びがあった。おらは独りで生きでみたがったのす。思い通りに我の力で生きでみたがった。~

なんと業の深いおらだったか。それでもおらは自分を責めね。~

周造はおらを独り生がせるために死んだ。はがらいなんだ。周造のはがらい、それがら、その向ごうに透かして見える大っきなもののはがらい。

(「おらおらでひとりいぐも」 若竹千佐子)

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"constellation" (コンステレーション):星座/布置 を意味する。

人生で起こる様々な事象のひとつ一つ、それらの星は無造作に置かれたようでありながら、

実は精確に布置されている…

ある時、一つの大きな星座が見え始める。

母の意志を超えて。私の意図を超えて。大きな見えざる手の介在がそこにある。

それを見いだせるだろうか… 

死者たちと「父なるもの」の願いと意図が、事象の中に織り込まれていることを。

現実の諸相が、その在り様が、重層的であることを。

未来と過去を含めた時空全体の夜空を眺め渡したときに、それらが美しい星座を形作り、

そこに普遍的な神話が込められていることを。


事象には可もなく不可もない。

生まれ落ちた私たちは、布置された事象の一つひとつに取り組むことで、

一つひとつ目の前に階段が現れ、いつしか自分が想定していなかった地点へと到達し、ある景色を眺め渡すことになる。

自分の存在が、介在が、行為が、その時は分からなくとも、大きな星座を形作る一つの星となる。

その星座を描く大きな存在の意志に、自らを沿わせられるようにと願う。


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いろいろなことを時々忘れたりもする父であったかもしれないけれども、ただ一つ絶対的に律儀であったことがある。それは死者との約束である。~

それは亡くなった人から生前に直接頼まれていたこともあるし、また父が密かに死者に対して誓っていたこともあると思われる。そのようなことを見ていると、河合隼雄はこの世の人とのつながりだけで生きていたのではないであろう。臨床家・河合隼雄は、間違いなく死者とのつながりでも生きていたし、死者に出会っている人であった。

(「臨床家 河合隼雄」(河合俊雄 編))

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いまのわたしは、いつか本で読んだ禅の思想にもとづく考え方にとても共感する。それはこんな考え方だ。樫の木がこの世に生まれるためにはふたつの力が同時に働いている。言うまでもなく、まずはすべての始まりであるどんぐり。すべての可能性と潜在力を内包した種、そこから樫の木が育つ。それは誰にでもわかる。しかし、ここに作用するもうひとつの力に気づく人はわずかしかいない。もうひとつの力とは、未来の木そのものだ。未来の木がとにかくここに存在したいとひたすら願い、無の宇宙から生まれる熱望で発芽を促し、無の場所から木を育て、成熟へと導いた。つまり、その成熟した樫の木が、それが生まれるどんぐりを創った、ということになる。

(『食べて、祈って、恋をして』エリザベス・ギルバート)

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man maru

こころ、無意識、アジア、旅の記録。

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