法事① 父の3回忌

父と祖母の三回忌、父方の祖父(私の曾祖父)の50回忌、そして母方の祖父母の50回忌。

総勢、ご先祖様5名の法事を、2日間で一挙に行うことになった。


法事のため、バリから一度帰国した。


2月とは思えぬ暖かな二日間。天気にも恵まれる。




法事の前後で、父の縁の方々にお目にかかる。


父の弟にあたる私の叔父は…この二年間の間に相次いで自身の兄と母親を亡くし、

弱々しく一気に老いた。

されど、ますます父に面影が似、仕草も笑い方も孫のからかい方まで瓜二つ、そこに父の臨在を感じる。

目の前の叔父はまるで父そのものだった。


法事の最中、父や祖母たちの隣在をここに集う親族がより感じられるようにと願う。

この残った親族の内側にすくう悲しみや嘆きが、癒されることを祈る。それが自分の役目のように感じた。



父の親友の方々とお会いする。

その方たちの優しさに…ただ驚く。


ある80歳を過ぎた父の親友の男性。私は初めてお目にかかる。

父が姫路で仕事がうまく行かなくなった時に、親身に父の相談に乗ってくれた方。

その頃、父の母、つまり私の祖母が痴呆になり、父はその母親を介護することへの責任感を背負って苦しい時期を過ごしていた。家族にも愚痴もこぼさず、休みの日にはひたすら祖母がほかの家族に迷惑をかけないよう、祖母を車で外に連れ出し、気分転換を図っていた。その父の様子をその親友の方は私よりもよく知っていた。


どんな思いで父は車を運転していたか。

老いていき、母だと思っていた母が失われていく中で、車に乗っている間は落ち着き、窓の外の景色をただ見つめる自身の母親と、父は毎週のように共にいた。

そんな父親の隠された思いを、まったく15歳の私は知る由もなかった、と、その方から当時の情景を映画を見せていただくようにして聞きながら思う。

当時幼かった私は、痴呆の祖母を邪険にすら思っていた。

自分の生きることに必死だった当時の私が知らなかった父の姿。私が想像しえなかった父の苦労が、その方のお話を通して滲み出る。

あたかも、真っ白な紙に、ぼんやりと滲みうつされる水彩画。立ち昇る景色、時空間。


その方ご自身、白内障、ポリープなどの手術を受けつつ、奥様がもう7年ほど全身に癌が広がり闘病中であり、看病をずっとなさっているとのこと。


私の母に言う。

「奥さん。僕、(私の父が亡くなった時)東京まで手ぇ合わせに行きたかったんや。

 でも、どうしても行けへんかったんや。理由があったんや。 

 それ、言えへんかったんや…」


何度も何度も繰り返す。悪かった、悪かった、でもどうにもならなかった、と。

自身と自身の妻が抜き差しならない7年間の闘病生活を歩む日々の中で、親友の葬儀に出れなかったことを、ここまで悔やみ、申し訳なく思うものなのだろうか。そして、それをじっと表現せず、直接会える日まで伝えるのを待ち続けられるものなのだろうか。

それは、まだ人生30の中盤で、女の私には恐らく理解しえない情感のように思われた。この年齢の男性達が持つ、人情の深さとでもいおうか。


70代になる父の別の親友の男性にもお会いする。

去年は脊柱管狭窄症を体操をして自力で治す。

そして現在、週の半分以上、自力で立てた山小屋で暮らす。

その生活を通しておっしゃる。

「ほんま、当たり前のことなんて、何一つないんですわ。水道ひとつとっても。水が出るっちゅうことだけでも。もう感謝しかないですわ。」


にこにこ、あっけらかんと話される。

身体の自由がきかなくなり、肉親や友人たちも一人またひとりと消えてゆく年齢。老いを重ねて自身の逝く先も見つめている方々とお話しするのは、楽しいものがある。


皆、言うことは等しい。

この世に生きている間にできることは、本当に小さなこと。

あっという間に時間は過ぎていくこと。

全て有難いこと。

いのちの不思議。



父の親友の方々は、全く父と対照的で、にこやかで朗らか、社交的で言葉づかいもこの上なく優しい。一見無骨でぶっきらぼうの父とは至極対照的だった。そう口にすると、姉が

「お父さん本当の良さをわかってくれて、本当の良さを共有してくれた人たちやったから」

と呟き、はっとする。

父の親友の方々のこの上ない優しさが、父のこの上ない優しさを証明している。母と姉と私の3人は、父の親友の方々とお会いすることを通して、知らなかった父の側面を知る。今初めて明るみに出る、新たな美しい表情を。


一見無骨でぶっきらぼうな父が、この上なく優しく暖かく、言葉にせずともいつも家族を思い、必死に働き、痴呆の祖母の世話をし、人に言えない悩みを抱え生きてきた、その一人の人間の生き様、父の懐の広さ深さを、生前父が懇意にしていた方々から知る。


「愛ちゃんのこと、かわいいかわいい言いよったで。一番下の娘の。」

そうした言葉、直接かけてもらった覚えはまるでない。不器用な父だった。言葉で表現するのは誰より苦手な人だった。でも、そうだった、言葉にしない分、直接言えなかった分、限りなく愛してもらっていた。

その言葉、こころ許せる数少ない親友の人の前では、漏らしていた。胸が詰まった。



タイやインドネシアからの帰国直後に思う。

なぜ、私は日本に生まれたのだろうか、と。

子どものころから、日本の組織社会にも地域にも馴染めぬ自分、

日本の気候が合わず体調を悪くする自分。

日本よりも、東南アジアの開放的な素朴なあり方の方に、居心地の良さと自由を感じ、伸びやかでいられる自分なのに。

なぜ、日本に生まれたのだろうかと。


細やかな繊細さと、つつましやかさのある日本。厳しい気候と人情のある日本。

孤独も苦労も、口にすることなく、じっと耐え忍びながらただただ自分の大切なものを守るために、日々自身を積み重ねてゆく民族性を持つ日本。

何か意味があったのだろうと思う。


父の一周忌に戴いたお花は、ドライフラワーにした。こうして、ずっと生かされる。

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