海
宗教は、と問われたら、海、と答えたい。
今日も、打ちつけられにやって参りました、と言って、入る。
朝は低気圧で重い身体、バリ島ウブドから海辺のチャングーまでバイクに乗って1時間半。水着になっていつもの祈りと瞑想。
360度ドーム型の空と海、これほどのヒーリングがあるだろうか。
heal (治癒する) とは、ギリシャ語の holos (全体性) の派生語。
海の、空の、いのちの全体性へ戻る。
海、どうぞ笑い蹴飛ばしていただきたい、
この卑小なわたしを。水泡のひとつにしか過ぎないわたしを。
わたしが握りしめていた意志、望み、意図など、高い強い波に飲み込まれ岸に転がるよう打ち付けられ、一瞬まるでからだが引きちぎられるかのごとく破壊されぐるんと勢いよく転がり手足もぐしゃんとつぶれ、からだの重みで折られそうになりながら、大腿は砂浜の衝撃でこすられ耳は砂で閉じられ、凄まじい水圧を受ける。圧倒的な水と風の脅威。
こんな小さな意志と望み、生きることへの固執も執着も一瞬解体される激動の波のあと、砂浜について意識が戻り、耳に詰まった砂を落として、また、海に向かう。
また、この愚かで卑小な私を、何度も何度も、笑い蹴飛ばしてもらう。
そうして、波に呑まれ、波に浮かび、手足を浮遊させながら、波になる。
私は海で
祈る、瞑想する、ヨガをする、歌う、踊る、走る、波に打ち付けられる、弄ばれる、笑われる、祝福してもらう、いつも波であり、空の雲であり、光である、思い出せ、と言ってもらう。
身体を通して宇宙を知る。身体が宇宙のなかの、小さな小さなひとつの細胞だということを。
司祭たちが、定期的に神聖な場所で祈りを捧げるのと同じように、
わたしは、定期的に、海に一掃されなければならない。
ここには、まったく、一人で来なければならない。
無意識への旅が、一人でしか行けないように。
海へも、一人でしか行ってはいけない。
そして、極少、物質の最小単位の粒子となる純度に近づく。
この純度でしかなされないことがある。
この度数になった時に、観える、聴こえる、ものがある。
力強い自らの中心軸が。
より
肉体を調える、さらに幹を太く強健に鍛える。
敏感さゆえに何倍も情熱と時間をこめて力を蓄えてゆかなければならない。
海の中で身体は波となり、全身が自由に浮遊して、これほどになく、身体は伸びやかに自由にしなやかに動き出す。
バリにいた間に、ジェナナクンダリーニレイキのアチューンメントを受ける。
そのエネルギーはヒンズー教のシヴァ神と仏陀からきていると聞いた。しかしヒンズー教に馴染みのない自分には、その存在がなかなかリアリティを持って掴めない。
海に行って、わたしにとってのシヴァ神は、海のようだと感じ、やっと身体で理解する。
シヴァは、破壊と再生の神。
海そのもの。
津波を起こし、全て押し流し、
そしてまたこの水で豊穣の恵みをもたらす。
死と再生は、ひとつであるように…
毎週のように海に通い、バリにいた最後の週、初めてサーフィンのレッスンを受ける。
「愛子、前を見ろ!下を見るな。怖いと下を向くんだ!」
初心者へのレッスンは手慣れているであろうドライなバリ人のコーチ。初めに短時間でボードのレクチャーを受けた後、すぐさま海に入り、波に乗れという。波に乗れば、すぐさまボードの上に立て!と言う。
もう立つのか?行けるのか?!
「愛子、行ける!」という声、わたしの太陽神経叢が震えて発せられているが、上方の空から発せられているようにも思う。誰の声?
が、波が来たら瞬間恐怖で動けない。
結局小1時間で体力消耗し、この日に立つことはできなかった。けれど、きっと次はできる。
サーフボードを使えば、波に呑まれることなくゆらゆらと浮かぶことができる。道具を使って拡張するわたしという身体。
自由度を広げ、自らがすべてを指揮することを自覚し、瞬時にからだが動くよう、しみ込ませていく。いかに個々の細胞組織を活性化し、いかにネットワークされたそれらの個々の細胞組織を統合していくか、そして瞬間瞬間最高のパフォーマンスを目指すかは、すべて私の意識と習慣化、そこから紡ぎだされる創造性による。
ずっとサーフィンをしたいと思っていた。サーフィンと思い連想するのは、知人のある女性。
その方とは不思議なご縁で、初めて出逢った日に、「お墓参りに行ったら」と助言をもらった。「家族のことに取りくむ時期じゃない」かと。
その数か月後に、私の父が急逝した。そしてさらに2か月半後、私の祖母が亡くなったと【全く同じ日】に、その方のお母様も他界された。
お母様が亡くなられてから、一年間、ずっと海に通い好きなサーフィンばかりしていた、と人づてに聞いた。「身体の半分をもぎ取られたような」とおっしゃっていたか、その身体で、海に通われ続けたらしい。
時間とは、星の回転のことなのだと、中医占星術の先生曰く。星が回転の軌道を描き続けある特定の位置に来た時に、ある特定の磁力が大きく働く瞬間が、くる。
空間を超えて似た現象が起こる理由のひとつには、そういうことがあるのだろうと思う。
そして、海に臨み波に乗るサーフィンというスポーツには、抗いようのない圧倒的な事象に対して、それを受け容れたり、来るべきタイミングを見計らいその瞬間にとっさの行動をとり、驚異的な渦巻く波の力を逆利用して自身のエネルギーを上昇させていく、そうした可能性を全身で学ばせてくれるようにも思う。
こうして、わたしはわたしを、調える。
いや、海に調えてもらう。
自然にことは起こる。
わたしたちが、邪魔さえしなければ。
良い波が来るのを、待て。
そして来たら。
漕いで漕いで、瞬間、立て!
恐れを捨てて。
さぁ、どんどん恐れを超えてゆけ。
海から上がり、ぼんやりと波を眺めながらココナッツミルクのベリージュース。海の中での非言語的な体験を回想する。ことばを失った世界から、徐々に三次元の時空間に戻り、一体さっきの体験は何であったかを、頭の中でたどたどしくことばとして変換する。
日常の穢れはすっかり禊終え、心身ともにゼロに戻る。一通り満足してカフェを出るとき、最後に海を振り返る。ありがとう、とこころの中で。
海が、笑っている。
「われわれにとって必要なのは、感覚の拡張であり、記号経験と直接経験の多重性を貫通する感覚の深化です。記号経験と直接経験の間を行き来し、交通する多次元感覚の(並置ではなく)立体化なのです。」
『〈身〉の構造 ‐身体論を超えて‐』 市川浩
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